樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

自分を所有しない

アメリカのトム・ハートマンという方の著書『ウエティコ 神の目を見よ』の中に、「ドロシー・リーは、1950年代に北カリフォルニアのウインツー族とともに生活し、彼らの言語を学んだ。彼女は、彼らの言語には、所有ないしは強制に関する動詞がないことを発見した。」という下りがあります。

私はこの「所有に関する動詞がない」ということは、とてつもなくすごいことだと思います。

今の私たちは、身近にいる他者を初めとして、集団として他国の人々を支配しよう(所有しよう)としたり、動物・植物等、自然界のあらゆるものを、自分たちの支配下に置こう(所有しよう)としているのではないかと思えます。

しかし、この世の中のすべてのものは、誰の所有物でもないし、所有されるべきものではないと私は思います。

また、自分と他人、あるいは自分と自分を取り巻くあらゆる環境を対比して、別の存在としてとらえた場合の関係性だけでなく、自分の内面に向かって、自分の本質に向かってこのことを考えたとき、「自分をも所有しない」ということが大事なのではないかと思うのです。

歌手の元ちとせさんが歌う『白夜』という歌の中に「借りものの感覚…」(作詞:HUSSY—R)という言葉が出て来ます。

我がこの身は「借りもの」であるということ…。

この身が「借りもの」であるということに気づいたならば、目覚めたならば、自分を粗末に扱うことが出来なくなってくる、自分の体を自ら痛めつけるようなことが出来なくなってくる。またさらに、この「借りもの」の身をいかにしたら最大限に生かし切ることが出来るかと、そういう方向に物事を考えるようになるのではないか、と思うのです。

自分を所有しない