樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

究極の幸福論

私の兄は、自分で中華料理店を開業するに当たって、「自分はいつも何かを追い求めていたいから、一番ではなくて二番がいい」と言って、店の名前を「二番」にしました。

私も兄と同じ血を引いているせいか、何かを追い求めている時に幸福を実感するところがありますが、自分の足元にある幸福論を思うとき、無いものを見つけて自分を不幸に陥れるよりも、今の自分にあるものを有り難く頂きながら生きていくことが幸福につながるのではないかと思いながら生活してきました。

しかし今から10数年ほど前、ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』という本に巡り会い、昼夜を分かたず夢中になって読了しましたが、そこに書かれていた神の言葉はまさに「究極の幸福論」とも言うべきもので、非常な衝撃を受けたことを覚えています。

そこには次のように書かれていたのでした。

「「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい!簡単なことだ。しなければならないことは、何もない。幸福になりたいか?では、幸福でいなさい。」

…まず、幸福であること…。

幸福になるために何かをするのではなく、まず、自分自身が幸福な存在になること…。

これは、幸福になるための方法論、つまり幸福論というような次元ではないかもしれません。

そして、ここに行き着くことが出来たならば、自分の抱えているすべての問題が解決してしまうと思います。

つまり、辛抱強い人間になりたいと思ったならば、辛抱強い人間として在ればいい。

また、人に優しい人間になりたいと思ったならば、優しい人間として在ればいい、というふうに、すべてが解決してしまうのであります。

しかし、日常のすべての瞬間の中で、このような精神状態を作り出し維持することは至難の技で、現状の私を省みれば、その手前でウロウロしている自分の姿を悲しく発見するしかないのであります。

究極の幸福論