樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

法輪転ずれば…

先日、中学生の授業参観に参加させてもらう機会がありまして、「働く意味とは何か」についていろいろな意見が発表されている光景をとても微笑ましく拝見させて頂きました。

皆さん、自由に思うところを発表する中には「人の役に立つため」であるとか「人に喜ばれるため」といった意見とともに、「家族を養うため」、「食べていくため」という現実的な意見もしっかりと出ていました。

大人になればなるほど世の中の厳しさが身に沁みて、理想論的な甘い幻想は口にしなくなりますので、「食べるために働く」という価値観が力を増してくるように思います。

私の母も夫の早逝に遭って、幼い私たち3人の子供を抱えて苦労してきたために、「食べるためには…」という言葉が思わず母の口から洩れるのをよく耳にしました。

私も、成人し独り立ちしてからずっと、働いて得た金銭によって生活してきましたから、この考え方に異論を差し挟むつもりはありません。

ただ、世の中にはもう一方の『有り方』、つまり「人の役に立つため」や「人に喜んでもらうため」など、「働くために食べる」という生き方があることも事実です。

そしてこれは、佛教に言う「法輪(ほうりん)転ずれば、食輪(じきりん)転ず」という『有り方』に通じるものだと思うのであります。

「法輪」法の車輪が回れば、「食輪」食べる車輪が回る…つまり、お釈迦さまの説かれるようなこの世の理(ことわり)のままに生きて行けば、自然と食べていくことが出来る、という『有りよう』であります。

私の体験から申し上げますと、出家をする以前にお世話になった山梨のお寺では、藁にもすがる思いの中で決死の覚悟ではありましたが、ただ坐禅をさせて頂いていただけなのに、何故あのようにあれこれとよくして頂いたのか。

あるいはまた、永平寺へ修行に上がる際にも、黒衣を着て歩いていただけなのに、何故追いかけてまでお布施を下さったのか…。

現在の私の生活の有りようが果たしてどれほど法の輪を転じているのか、正直なところ分かりません。

ただ、動ける間は自分として精一杯のことをさせてもらえればいいと思っているくらいのことで、あとは静かに消え去ることが出来ればいいなと思うくらいのことであります。

法輪転ずれば…