樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

追いかけるもの

車を運転していると、例えば追い越し禁止の1本道や1車線の高速道路で、前の車の直後にピッタリと追走している車がいます。

それも、追い越し可能な場所になるまで何キロにもわたって、延々と追いかけ続けています。

そんな光景を目にするたびに、私は、お釈迦さまが亡くなられる時、周りに集まってこられたお弟子さん方に対して、最後の最後のお話をして下さった『佛垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)』の中の一節を思い出さずにおれません。 

「不知足(ふちそく)の者は、常に五欲の為に牽(ひ)かれて、知足の者の為に憐愍(れんみん)せらる…」

…何かが不足で、それを得ようと追いかけ回している者は、既に足ることを知って、追いかけ回すことをやめてしまった人から憐れまれる、ということであります。

ただしかし、これは全く他人事でなく、まさに自分の姿であることを思い知らされています。

私が、前の車を追いかけ回している姿をその後ろから見ているように、私も知足の人から、憐れな人だと見られているのだなあと、背中にその視線を痛切に感じるのであります。

一体、いつになったら追いかけ回すことをやめるのか…。

私の、佛法の上で曾祖父に当たる方が残されたお言葉の中に、「買いたくてたまらぬのを買わないのが解脱だ。買えば買うお銭(あし)があるにもかかわらず知らぬ顔をしている、それが解脱だ。」とあります。

私の場合はそれからすると、買いたくてたまらなくて、お金をかき集めているようなものであります。

全く情けない…。

今生(こんじょう)での解脱など、到底出来るものとは全く思えないのであります。

時まさに智源寺(私が日常詰めている師匠のお寺)では、3月15日の涅槃会(お釈迦さまの亡くなられた日に因んだ法要)に向けて、3月1日から14日まで、夕方のお勤めで『佛垂般涅槃略説教誡経』をお唱えしています。

今の自分とは余りにもかけ離れた存在であるお釈迦さまを思う時、ただただ畏敬の念しか湧かないのであります。

追いかけるもの