樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

第三話 「速記者に」

「死、死んでる…」

用務員のTさんは、その日の早朝、速記者養成所敷地内のグランドに寝かされていた私を見つけると、恐る恐る近づいて心臓に手を当ててみたが動いていないと思い込んで、人が死んでいると大騒ぎになってしまった。

酔いつぶれた私を寮の三階の部屋まで連れて行くのが大変だったために、友人がグランドで寝かすにしても可哀想だというので敷布団を敷いた上に掛け布団までかけて寝かされていたところだった。

寝てはいたものの、何となく周りの騒ぎに気がついた私は、もう酔いも醒めていたこともあって、布団を担いで三階の自分の部屋までさっさと帰り、再び寝入ってしまった。

そして、しばらくして起こされた時には、用務員のTさんから連絡を受けた学年主任のH先生の顔が、二段ベッドの上段に寝ていた私の顔の真横にあった。

思わず目と目が合うと、H先生は真っ直ぐにこちらを見ながら、「君、夕べのことは覚えているか。」と私に質問されたが、私が強情に、はっきりとした口調で、「はい、覚えています。」と言うのを聞き届けると、「後で職員室に来なさい。」とだけ言い残して部屋を出て行った。

私は、実は何も覚えてはいなかった。

酔いつぶれるまでの記憶といえば、同級生のSが行きつけのスナックで、他の友人数名とウイスキーの水割りを飲んでいたところ、成績の余り良くなかったSが愚痴をこぼしながら酒を飲んでいる姿に何とも言えぬ思いがして、酒はこうやって飲むもんだとばかり、そこにあったウイスキーのボトルをつかんで、三分の二程あったウイスキーを一気に飲んでしまったことくらいで、後はトイレの中で胃の中身を全て吐き出して沈没していた私を、同級生たちがリヤカーに積んで学校の敷地まで運んでくれたのだった。

…この「リヤカー事件」以降、速記者養成所での私は、性質の悪い問題児となってしまった。

福島先生のお宅を訪ねてから数日後、私はスポーツ新聞の求人欄で見つけた地質調査の会社で働いてみたいと思い、横浜の事務所へ面接に出掛けた。

従業員数名の零細な会社だったが、肉体労働の仕事にしては細身の社長さんが、とても感じよく私を面接してくれた。ただ、後で聞いたところによると、何やら青白い顔色をした私が果たして重労働に耐え得るかどうか、かなり心配されたらしい。

しかし、二人一組での仕事の相方は望月さんという四十歳を少し越えたばかりの優しい人で、私は親切に仕事を教えてもらったり、色々と面倒を見てもらいながら、非常に楽しく毎日働いた。それに、夏の昼下がりなどには、普通の道路が仕事場であったりすると、食事が済んだ後、人通りのある道路に無造作に寝転んで休憩をとるような、そういうざっくばらんなところが結構気に入っていた。また、近県に出張することも多く、まだ道路が出来る前の山中を重い機械を二人で担いで運んだり、旅館で作ってくれた握り飯を山の中で頬張ったりするのが愉快だった。

そんなことで、半年余り楽しく働かせてもらったのだが、私にとって最後の現場になったのが崖崩れのあったところで、前日に仕事をしていた足場が翌日行ってみると見事に数十メートル崩れ落ちていて、私は正直、腰が引けてしまった。

あるいはこの現場で命を落とすことにはならないかもしれないが、この仕事を続けていくことに身の危険を感じてしまったのだった。私は次第に、机に向かってする仕事がしたいと強く思うようになり、社長さんに引き止められながらも、ついにこの会社を辞めてしまった。

そんなある日、私はいつもの本屋さんで、様々な専門職を紹介している本を見つけた。そこには灯台守などいろいろ特殊な職業が紹介されていて、中でも国会速記者紹介の記事に非常に興味を覚えた私は、早速、速記者協会なるところへ電話で問い合わせをしてみた。

すると、何と電話の相手は私と同じ高校を卒業された大先輩で、受験資格が男子の場合二十歳までであること、高校の成績が中の中くらいならまず受かるだろうということ(私の成績は下の下だったが)、養成所の試験は漢字の書き取り問題が多数出題されること等を親切に教えて下さった。

これも有り難いご縁だったのだろう、私は入所試験まで僅か三、四ヶ月しかなかったが、何とか頑張ってみようと思い、それから毎日、火のついたように勉強した。

かくして、男子七~八倍、女子三十数倍という速記者養成所の入所試験に合格して、男子九名、女子六名、合計十五名の同期生の一員となった。養成所は国の機関であったため、学費はかからず、逆に月々数千円の生徒手当が支給された。そして、速記符号の基本を教わる符号教程期間中は、原則として全寮制であった。

この期間中の授業は特に厳しく、二日に一度のテスト、土曜日の漢字テスト、月末テスト、前期テストというようにテスト詰めで、少しでも成績が悪いと職員室に呼ばれて退学を勧告される。

私の「リヤカー事件」は、まさにこの頃に勃発したものだった。

スナックでの一件は、同僚の愚痴もさることながら、私自身のストレスもかなり原因していたのだと思う。公務員の世界にありがちな「出る杭は打たれる」的な、「長い物には巻かれろ」的な、「お上の言うことには逆らうな」的な、およそ血気盛んな若者から夢も希望もはぎ取ってしまうような体質が、私にはどうしても受け入れることが出来なかったのだろう。

しかし、そんな私にとって唯一の救いとなったのは、速記という知的な技術そのものが非常に魅力的であったことで、問題児となり下がってからも、私は速記の勉強だけは毎日人一倍したように思う。

それに、幾ら公務員の体質が嫌いであっても、国家公務員というステータスは、「母に悲しい思いをさせない」という誓いを達成するためには、一面において、まさに必要十分過ぎるほどの要件を満たしていた。

幸いにして、二年半の養成期間を何とか終えた私は、男子一名、女子五名の同期生とともに採用試験に合格し、国会速記者の卵となった。(続)

第三話 「速記者に」