樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

第六話 「岩魚」

…岩魚はゆったりと後ろ姿を見せながら、名残り惜しそうに、そして私に「有り難う」とでも言っているかのように、夕暮れの中、いつまでも泳ぎ去ろうとしないのだった…

私はその年の春、お世話になった山梨のお寺を辞去してから夏までの四ヶ月ほどを長野の野菜農家で過ごした。

私を住み込みで雇い入れたその農家は南佐久郡にあって、レタスやキャベツ、白菜などを高原野菜として出荷していた。農家の主は四十絡みのがっしりした体躯の持ち主で、奥さんは少々小太りの、気さくで優しい、料理の上手な人だった。夫婦には高校二年の長女と中学三年の長男があって、学校が休みの日には皆、畑に出て働いた。

働き手は私の他にもう一人、やはり住み込みで雇われた三十前の青年がいたが、この農家で数ヶ月働いたお金で、何か自営の仕事を始めたいという希望を持っていた。

農家の仕事は、野菜の苗づくりに始まって、畑に雑草除けのマルチ(黒いビニール)を張った後、炎天下で重いガスバーナーを背負いながら苗を植える穴を等間隔に開ける重労働や、苗付け、草取り等々、晴れた日には仕事は幾らでもあった。私たちは日中、ほぼ目一杯働いて、母屋で順番に風呂をもらい、一家四人と合計六人で夕食を呼ばれると、後は別棟に割り当てられた部屋に戻って、特に何をするということもなく就寝した。

田舎の一軒家のような環境では、外に遊びに出るのも大変なことであったし、私にとっては山梨のお寺にお世話になっていた時とある意味大差のない生活だったので、これといって不満はなかった。

それでも、雨が降って外仕事が休みになり、段ボール作りなどの作業がない日には、一日、部屋にこもっていても仕方がないので、私は川釣りに出掛けた。

私は、農家の主人に頼んで釣り道具屋に連れて行ってもらい、四・五メートルの振り出し竿と釣り糸、釣り針、重り等をごくシンプルに買い調え、土地勘がなかったので、最初のうちは中三の長男坊に道案内を頼みながら一緒に釣りに出掛けた。しかし、長男坊は飽きっぽい性格もあってかそのうち川釣りに飽きてしまい、私は次第に一人で釣りに出掛けることが多くなった。

私は、横須賀の実家が海にほど近い場所であったので、小さい頃から海釣りにはよく出掛けたが、川釣りは全く初体験であった。また、農家の裏手には畑に使う牛糞の堆肥が山のように積まれていて、そこには釣りの餌にするにはちょうどいい大きさのミミズが幾らでも繁殖していた。

私が発見した川釣りの面白さは、一つには、自分の見つけたポイントに、足音を消しつつ、陽の光の作り出す影が魚に悟られぬよう万全の注意を払いながら忍者のように忍び寄り、うまく流れに落とした餌に魚を食いつかせるところにあった。僅かな流れに見える浅瀬でも、ちょっとした深みを見つけて餌を投げ入れると、思わぬ大きさの獲物が掛かることがあった。

そしてその日、私は、もう幾度となく訪れて、川の景色もすっかり見慣れた場所にやってくると、少し暗がりにある大きな岩の根際(ねき)が目にとまった。川の水が回り込んで、ちょうどその大きな岩の下の深瀬に餌のミミズが流れ込むように上流から何度か餌を投入すると、果たして一尺に届かんばかりの岩魚が掛かった。

海の釣りでは、三十センチからなる魚を釣り上げるには、水深もあるので少々手間取るが、川は水深が浅いため、掛かった魚を慎重に浅瀬に誘導しながら引き上げれば、まず逃げられることはない。

私は、釣り上げた岩魚を大きなプラスチック製のバケツに入れた。バケツには川の水が二分の一ほど張ってある。岩魚は時折バケツの壁を突つきながら、静かに泳いでいる。

バケツを川の流れの中に置いて、私はしばらく上から眺めていた。そしてやがて、一ミリほどのバケツの壁に隔てられた内と外の世界の残酷さに、胸が詰まるような思いがした。

つい先ほどまで、自然の川の流れの中を自由に泳ぎ回ることの出来た岩魚は、今やほんの一ミリのプラスチックの壁によって内外の世界が仕切られて、もはや自分の力では自然に帰ることは出来ない。行く行くは、以前私に釣り上げられた岩魚たちと同じ運命をたどって、農家の魚焼きの網の上に乗せられることになる。この僅か一ミリの壁は、私の休日のほんの気休めのために、岩魚を奈落の底へと突き落としているのだ。

…私は、その日の釣りを切り上げて、夕暮れ近い川岸を、例のバケツを片手に歩いていた。

そして、今でも決して忘れることの出来ない「あの場所」に差しかかった時、私はバケツをそっと川の流れの中に傾けて、中の岩魚に外へ出るよう促した。

岩魚はきっと一目散に泳ぎ去るだろうと私は思っていたが、何故かなかなか外に出ようとしないので、バケツを揺らすようにしてさらに岩魚を促すと、ようやくゆるゆると川の流れの中に泳ぎ入った。

岩魚は、数メートル上流の、自分からも私からも、お互いが相手を見て取れるような距離に立ち止まって、じっとしている。岩魚はゆったりと後ろ姿を見せながら、名残り惜しそうに、そして私に「有り難う」とでも言っているかのように、夕暮れの中、いつまでも泳ぎ去ろうとしないのだった。

辺りは、もう暗くなりかけていた。(続)

第六話 「岩魚」