樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

第五話 「山梨県・山中の寺」

私は、職場の先輩の勧めで、山梨県の山中の、とあるお寺のお世話になった。

朝三時半に起床して洗面等を済ませ、坐禅堂に向かう。坐禅は一炷(いっちゅう・一回に坐る時間)四十分で、早朝の坐禅は二炷であった。坐禅が終わると本堂で朝のお勤め(お経)、そして朝の飯台(はんだい・食事)となる。ここでは、朝は玄米のお粥、昼は玄米と味噌汁等、いわゆる一汁一菜が基本で、夜は麺類を頂いた。

寺の水は、傍を流れる谷川の上流から取水したものを一旦タンクに貯め、それを水道管で寺内に引いていた。電気は無く、夜は主にキャンプ用のランプを用いていた。また、炊事のためにプロパンガスが設備されていたが、風呂は薪で焚いていた。しかし、水が貴重品であったため、風呂を焚くのは三日から一週間に一度くらいだった。

私は、五月の連休中に、東京から見えていた参禅会の方々に交じって一週間ほどこのお寺のお世話になったが、参禅会が終わった後、一度自分のアパートに戻り、家財道具等、所持品のほとんどを整理して、身の回りのものをスポーツバッグ一つにまとめ上げ、再びお寺に戻った。

…私は、自分を白紙に戻したいと、強く願っていた。

国会速記者として曲がりなりにも働かせて頂いていた三十二歳の時、私は再婚し、二人の子供ももうけたが、結局、三年で破局を迎えた。私が国会での仕事を辞め、それと同時に離婚して家を出て行くことを告げるために実家へ行くと、母と兄から猛烈な反対を受けて、私は兄から臼井の家を勘当された。

私は、天涯孤独、一人きりになった。ただそれは身から出た錆で、仕方のないことだった。

…私は、山中の坐禅堂で、時に一人、涙を流しながら坐禅をしていた。また、留守居の時には、ランプの灯り一つを頼りに、真っ暗闇の坐禅堂に向かった。

時折、参禅者が登ってきたが、皆、数日間で帰って行った。

数ヶ月するうちに、私は自分の生活だけではなしに、お寺の用事を任されて、色々と人の面倒を見ることが多くなったが、そんなある日、いつものように麓の店まで食材を買いに山を下った。

お寺では月に一度、麓の村に托鉢に出掛けていたので、村の中には私と顔馴染みの子供もいて、私を見つけると数人の子供たちが寄ってきた。私と別れた二人の子供はまだそれほどの年齢には達していなかったが、私になついてくれる村の子供を見ていると、とても愛おしく思えた。

そしてそれは、まるで我が子との区別がないもののように思え、ハッとした。

十九歳の時、剣道の福島先生が言われた「ゼロは一よりも大きい」ということは…。

自分の執着するところ、きつく握り締めて放そうとしないところを解き放したとき、私の手は全てのもので満たされるということなのか。(続)

第五話 「山梨県・山中の寺」